なりたい自分を生きられていないあなたへ

はじめまして、夜空 希来(よぞら きき)です。

自分らしく生きること、今はそのように生きている私ですが、自分を上手く解放することができず、悩み苦しんでいた時期があります。

私のこれまでの人生は、波瀾万丈でした。

夜空 希来は、占い師としての私のビジネスネーム。
私の戸籍上での名前は幸子です。私は幸子という名前が好きではありませんでした。
とても皮肉に感じる名前だったからです。
運送会社を営む家に生まれ、三姉妹の長女だったことから、物心ついた頃から実家の家業を継ぐ者として、とても厳しく育てられました。

小学校から中学校にかけての私の物語です

朝起きると仏壇へのお勤めから始まり、朝ご飯の支度、掃除と家事をこなしていました。
バイオリン、クラシックバレエ、絵画教室・・・ 私がやりたいと親に頼んでみたことです。一切聞き届けられませんでした。親が選んだ習い事をしていました。
わからないことを聞いても「辞書で調べなさい」
学校で辛いことがあって話すと「辛いことは、さっちゃんが全部引き受ければいい。」その後一度も辛い話はしないようにしました。
学業の成績はトップクラスでしたが、一度も褒められたことがありません。
「上には上がある」私が言われ続けた言葉でした。
具合が悪い時でも、いたわってもらうこともありません。外からは裕福な家の子供としてうつっていたせいか、意地悪な言葉を投げつけられることが多く、傷つきながら、受け入れてました。ただひたすらに健気で性格の良い子供だったのです。
私の人生って希望は叶わない、思うようにできない、決められちゃっているんだと思い込んでいました。
好きなことは本を読むこと、世界の音楽を聴くこと、お菓子を作ること。
空想の世界で過ごすことが好きでした。
そして辛い時に私がしていたことは、夜空を見上げることでした。
ある夜、オリオン座を眺めていると、流れ星が私に降ってくるような感覚がありました。そしてある日、私の脇の下に三つ星のホクロがあることに気づきました。
もしかしたらあの時からかもしれない・・・ 辛いことは、私が成長するために神様が与えている試練なんだと思うようになりました。
世の中は私が成長するために回っているとさえ思ってしまう不思議な子供でした。
この頃から占いに興味をもち、周りの人たちを分析するようになりました。
西洋占星術にはじまり、算命学、カバラ数秘術などです。

親の希望どおり、地域の進学高校へ、
そして東京の大学へ、そして親が希望する大企業にも就職しました。


ここまでは親の希望どおり。まるで、親のための私の人生。自分の自由に、好きなようには生きていませんでしたが、特に不満はありませんでした。決められた枠の中で、出来るだけ楽しく日々を過ごすようにしていたからです。
しかし大学4年、就職活動をしながら悩みはじめます。
仲の良かった友人から投げられた「お前はそれでいいのか?」という言葉。
何度も繰り返し言われ続けながら、本当は良くない、だって全く私の希望じゃないから、と思うようになります。
同時期、私にとってはやはり大切な人に出会い、それまでの自分の人生を180度変えてしまうようになります。
出会った人は、マヤ暦占星術でいう「絶対反対KIN」の相手。
運命を180度変えるタイミングに現れるようです。
就職先では上司との関係も良く、今思い返してみて雰囲気の良い会社でした。ただ私の配属先が忙し過ぎました。仕事以外に何にも出来なかったほどです。社内でも「戦場」と呼ばれていた部署でした。
定時より大幅に過ぎても終えることが出来ず、仕事を持ち帰る毎日。
スーパーに買い物に行く時間もなく、仕事が終わってから台所に立つ気力もなく、朝はパンをかじり、昼は社食の蕎麦、夜もパンをかじる生活。栄養が偏り、思考もどんどん極端に偏っていきました。
この仕事は私でなくてもできる、会社は私がいなくても困らない、このままだと私らしくない、私がだんだんと消えてなくなってしまうんじゃないか、という不安と恐れから会社を1年経たずに退職してしまいます。
親の期待を裏切ってしまうという思いもあり、退職するまでには相当悩み、身体を壊していきました。拒食症だったと思います。それまでの自分を一度粉々に壊したいと思い、意図的に自分自身を痛め傷つけました。そうしないと次に進めないほど、私は不器用な人でした。
そして私は、私のやりたいことを求めて劇団に入団したのです。

私の中の point of no return  

職場は西新宿の高層ビル街から、新宿歌舞伎町・ゴールデン街へと変わり、昼は劇団、夜はアルバイト、夜中はお店のお客さんに付き合って歩くことも多く、まともに眠ることも出来ないくらいの生活をしながらも、私の気持ちは明るく希望に満ちていました。
にもかかわらず、私は劇団もやめてしまうのです。人間関係が原因でした。
失意の中、私は次の場所を探し求めながらアルバイト生活を続けるのですが、半年ほど経った頃、親から「助けてほしい」という連絡が入ります。当時キャンプブームだったこともあり、親がキャンプ場を作ってしまったのです。そして運送業とキャンプ場を両立できず、働きすぎから体調を悪くしてしまったのです。
こんな中途半端な時期に親から助けを求められたことは、そういう流れ、結局そういう運命なのかもしれない、当時の私はそう思ったのでした。
キャンプ場で働くことを決め、その流れで結婚までしてしまいます。

20代半ば、東京から山梨へ  

昼も目一杯動き、夕方から夜遅くまでアルバイトしていた生活の全てがガラッと変わります。キャンプ場は夕方には暗くなる山の中、集落と集落の間にありました。電波は届かず、テレビはNHKですら入らず、ラジオも入らず、本屋もなく、コンビニもなく、商店で大好きなアイスを買うと一度溶けたアイスが形を変えて固まったようなもので、都会から移ったばかりの私はショックを受けました。
移住してすぐ、やはり集落と集落の間に新興宗教団体の工場が突貫工事で建設されました。隣人は新興宗教団体の方々。不気味な集団でした。
そのことも原因し、結婚生活もうまく行かず、たった2年で離婚。
東京での生活が恋しく、仲間の多い東京へ戻りたく、その気持ちを親に伝えました。けれどその返事は「一度引き受けたことは例え一人になっても責任を持ってしなさい」私自身もその通りにすべきだと思いました。
私は一人でキャンプ場の管理をしていくことになったのです。
「幸子」という名前の意味が嫌で「さち」を名乗るようになります

離婚直後、阪神大震災が起き、続いて 隣の新興宗教団体によるテロ事件が起きました。
キャンプ場上空にはヘリコプターが飛び、テレビ局、新聞社などの取材陣にはひどいことを散々言われ、機動隊の車両には轢かれそうになったりもしました。GW予約で満杯だったお客様はほぼキャンセルになり、知らずに来場されたお客様たちには責められ、ストレスから身体中に蕁麻疹が広がり、一年ほど病院に通うことになるのです。どうして、私はこんな目にばかり遭うの? と、目の前が真っ暗になりました。
そんな頃、訪ねてくれた友人が私に言ったのです。
さっちゃん、川が綺麗だね、水の音が聞こえるね、風の音も聞こえるね、嬉しそうに耳を澄まし、木や土を触りながら、さっちゃんにも聞こえてるよね? って。  
涙が溢れてきました。
私の周りには自然がいっぱいでした。
山の緑に囲まれ、清らかな川が流れ、木や土の温もりだって感じることができるそんな環境にいながら、私はまったくそれを感じることが出来ていなかったのです。
それからの私は、川のせせらぎ、風の音、たまに獣の声も聴きながら、天と繋がることをイメージし、夜空の下で瞑想するようになります。
一人で働き、お客様がいらっしゃらない時は誰とも口を聞かないという生活が10年以上。長い期間、一人で黙々と働きながら過ごしていました。
一人でいる時、心は凛としていて、特に寂しいとも感じませんでした。
そんなキャンプ場管理人時代、お客様だけでなく色々な出会いがありました。
大好きな電車の車両を頂いたり、ずっと憧れていた女性ライダー、アーティスト、ミュージシャン、歌手、詩人・・・素敵すぎる方々に出会うことができ、良い刺激をいっぱいいただきました。
辛いことや理不尽なことも色々あったけれど、それ以上に素敵なことがいっぱいだったと思います。
そして、もうひとつ。キャンプ場で働きながら、週1回〜月1回ペースでフラメンコ教室に通っていたのですが、2000年〜 スペインのセビージャへ毎年のように短期留学をするようになりました。
キャンプ場でのオフシーズンの仕事、植栽、ハーブガーデンを作る、バンガローを建てる、図書室を作る、車両を利用したバンガローの設置、露天風呂を作る、石焼パン窯を作るなど、何年かに渡り自分の考えられる全ての仕事を終わらせたタイミングで、オフシーズンの2ヶ月間休職させていただき、フラメンコの勉強をすることを決めました。
子供時代、世界の音楽シリーズの中で特に好きだったのがスペインでした。レコードを聴きながら、スペイン・アンダルシア地方とセビージャのフェリアとセマナ・サンタの写真を眺めていました。
その写真の街が私の留学先、私の心の故郷になっていく街でした。
セビージャでの短期留学中も、フラメンコ界の大先生たちだけでなく、素敵な出会いがいっぱいありました。セビージャでの私は、明るく開放的でした。人々が温かく受け入れてくれたからです。私はセビージャの街、セビージャに暮らす友人たちに恩を感じています。
フラメンコを生涯続けたいと思ったのは、踊り自体も好きだからですが、彼らと一生繋がっていたいと思ったからです。
20代半ばで山梨へと移り、一人になってからはキャンプ場をだんだんと愛するようになり、私の愛情とエネルギーを注ぎ込んでいましたが、2006年秋、自分の意志からではなく私はキャンプ場を離れることになります。14年間に渡り、私のエネルギーを注ぎ込んだものだったので、辛くてひどく泣きました。キャンプ場での14年間、いつも私の傍らにいて、いつも私を守ってくれた愛犬シルバーは、私がキャンプ場でのお仕事を終えるタイミングでこの世を去っていきました。

そして私は、あらためて「なりたい自分」になっていく決意をしました。
私が選んだ職業は、フラメンコのインストラクターでした。
踊り手としてはまだまだでしたが、思いがあるから叶うと思いました。そして、私に出来るダンススタジオの在り方を考えました。私のスタジオに通ってくださる方々たちに、楽しい、元気になる、いい気分転換になる、そう思ってもらえるスタジオを目指そう!という気持ちでスタートしました。

スタジオ経営をしながらも、山あり谷あり。
1年、3年、5年、10年・・・ 
そういった周期で、自分のお仕事を見つめ直しています。
今から10年前、スタジオを始めて3年経った頃に、最初のスランプが訪れました。
スタジオ内でも家庭内でも悲しいことが続き、心の苦しい時期でした。そんな時、占術の勉強をしていた親友からアドバイスをもらったり、プロの占い師さんに鑑定していただく機会がありました。

すごくしっかりしている。束縛されるのが嫌い。
前向き。自分の考えで、一人で仕事をしていくのがあっている。人さまに何かしてあげるのが大好き。接客業に向いている。人に教えたりすることも非常にあっている。など・・・

姓名判断、生年月日、手相から鑑定してくださいましたが、ピタリと私のことを言い当てられたようでした。私の目を見て「人を惹きつける綺麗な目を持っているのね。あなた、ちゃんと勉強して占い師にもなったらいい。いつからでも出来るわよ。」そう言われたことがとても印象的でした。

同日、親友と一緒に甘味処で何故か神社の本をいただき、数日後にはカフェで何故かマヤ神聖暦のダイアリーをいただきました。
私たちは飲食代よりも高い書籍を続け様にいただいて不思議がっていましたが、シンクロニシティが起きていたのだと思っています。
その翌年、FBで私の人生に影響した人たちと再会。それを機に、またバイクに挑戦しようと決めたのでした。
東京に長くいるつもりで取得した中型バイク免許でしたが、20年放置していました。バイクを手に入れ、今から乗ろうと思った時、一緒にいた人が事故をして、その恐怖心から乗れなくなってしまったのでした。いつか乗りたいと思い20年近く所有していたバイクも、少し前に手放してしまったところでした。
一年間お金を溜め、身の丈にあったバイクを購入。週末、バイクで走ることが楽しみになりました。辛い時にもバイクに乗り、苦しくて堪らない気持ちは風の中に流すようにしていました。
去年、バイク事故に遭って怪我を負いましたが、私はバイクをおりようと思っていません。ただこの事故がきっかけで、神様からまた試されているのではないかとも思っています。

私のこれまでの人生は波瀾万丈、七転び八起き。
辛いことも理不尽なことも色々あったけれど、トータルしてみると幸せなことの方がいっぱいな人生。それは人に恵まれているからだと思っています。

人に頼ることがとっても苦手にもかかわらず、私が大変な時には手を差し伸べ、助けてくれる仲間がいます。子供時代からの友人だっています。
辛くてひどく悩んだ時期、私に影響した人たちに対しては本当に感謝をしています。30年経った今でも彼らと繋がっていられることにも感謝しています。
厳しかった親も、今ではとっても私に優しく、関係も良好です。戦争のない平和な日本に育って、幸せだとも思っています。
いつか私の人生が終わる時に、いい人生だったねと自分で自分を褒めてあげたい。そう思えるように、自分の頭に浮かんでくるイメージ、自分の思いは叶えるようにしています。

なりたい自分を生きれていなかった以前の私も、日々を一生懸命生きていました。なりたい自分になりたくて、自分の気持ちに正直に生きることも私にとっては決して楽なことではありませんでした。
そこにはいつも責任が伴い、いつも人が絡んでくるからです。それでも私は35年間、人と関わるお仕事を選んでいます。自分なりに周りの人たちを、そして自分自身をも分析し、さらにはそこに占術を照らし合わせながら観察を続けてきました。
今までどれだけ多くの人と接してきたのでしょう。

世の中に私が存在している意味について考える時、
私の思いが形になり誰かの喜びに繋がること、それが私の喜び、私が望んでいることだということに私は気づきました。
みなさんのお役に少しでも立ちたい、夜空からの使者、あなたに希望を届ける流星でありたい、そう思いながら活動しています。